昭和五十七年三月十二日 朝の御理解


x御理解第五十八節
人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。


 お釈迦様は世の中の難儀、苦しみとかというようなそういう難儀の実相を見極めようとなさったのが、お釈迦様であり、そこから生まれたのが仏教だとおもうですね。
 教祖金光大神も、世の様々な難儀に出会う給うと祈念詞の中にありますように、世の様々な難儀に出会われた。そしてその出会われたたんびに心が開けておいてになられた。ということは御教えにもありますように、「難は霊験」と喝破されたんですね。四神様は「難あって喜べ」とも仰せられた。
 合楽理念では、まあ難というのはないのだとね、あるのは神愛のみだという風にまあ説きます。私は合楽に御神縁を頂かれてる方達が、どうでもおかげを頂いてもらいたいことは、貧相病のない世界、いわゆる合楽世界に住んでもらいたい。
 此の現世においても、あの世においてもね、ということなんですけれども、これはもう日々御祈念の時に、その事を御願いを申し上げるんですけれども、皆さんの願いもやっぱりそうでなからなきゃいけない。本当に合楽世界に住みたい。
 そこは神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びと仰せられるようなあいよかけよの喜びと同時に、神様と私共が喜びあえれる合楽世界ね。そういう合楽世界に住まわせて頂くことを願いとする信心、ま合楽理念により、いろんな角度から、いろいろ教えを頂くわけですけれども、結論すると、本当に教祖様がおっしゃるように、難は霊験であるとい事を突き止めることだと思うですね。
 いわゆる四神様が仰せられるように普通では難と言うけれども、その難をもって喜べる心の状態が開けてくることを、私は目当てにお互い稽古しなきゃならんと思うです。
 信心しておるのに、どうしてこんな難儀が続くだろうか、信心しておるのにどうしてこんなきつい苦しい事があるだろうかというあいだは、だから合楽地年を本当に実験実証してない証拠だという事になるわけです。
 合楽理念の究極のところはです、難は霊験、難という事その事が霊験である。為にはなら、難あって喜ばしてもらえれる、御礼を申し上げる。自分の都合の良いことだけが有り難いのではない。都合の悪いときにも御礼が申し上げれるような心の状態が開けてくる。 話を聞いただけでは分からない。これはやっぱり日々実験実証さして頂かねば頂けることではない。
 中にはね、言うならば、人が泥棒じゃと言うても、乞食じゃと言うても、という。まあそこには腹を立てねばおられない、情けないと思わなければおられないような事に出会っても、その都度に、しっかり信心の帯をせよ、とおっしゃってるんです。そこにしっかり信心の帯をさして頂くところから、あれもおかげであった、これもおかげであったというおかげの世界が開けてくるんです。
 合楽理念の神髄と言うか、本当の事が分かったという事は、難を霊験と。難あって喜べれる御礼の言えれる心が開けたときに、初めて合楽理念が分かったと。 合楽理念は何を説くかとまあ言われたら、勿論、天地日月の心を説くわけですけれども、その難の実相、難の実態それは難じゃない。
 神様が氏子かわいいと思し召す一念の現れなのだ。と悟れたときに、その事に対して御礼が云えれる。
 だからその御礼が云えれるまでが、私は合楽理念のマスターだとこう思うんですね。それをなら、あらゆる角度から如何に喜ばねばならないか、如何に御礼を申し上げねばならないか。
 さあここが天の心ぞ、地の心ぞ、日月の心ぞとその天の心を求めては天の心になる稽古。地の心を言えば地の心にならせて頂くためのいよいよ日々、絶えまざる稽古をさしていただく中から、初めて難は霊験であるということが分かってくる。
 又成る程難あって喜べとおっしゃるようにね、本当に御神願有り難しと御礼を申し上げていかなければならん。そこまでです。合楽理念はね、どうぞ此の難儀から、ね、まあ言うなら貧相病のくるしみというかね、様々な難儀という難儀から、いわば逃れたい逃れたい、どうしたらその逃れる道があるだろうか、というただ助けて下さいというだけでなくて、その中にいわば、御神意を悟り御神願がわかりね、御礼を申し上げさせてもらえれるということ、私はま、いつも思うですけれどもう、本当に私共の周辺には御礼を申し上げねばならない事柄や物やらばっかりなんですよね。
 朝起きるとまず、目覚ましのおかげ頂いたことを御礼申し上げるですけれども、布団に御礼を云い、枕に御礼を云いね、洗面所に行ってはお手洗いに御礼を云い、タオルに御礼を云い、私はこれが、本当に御礼が云えれる、この合掌する心になるときに、タオルも布団も又、私を合掌しておるかのような感じにこう、浸ることがございます、私は云うなら拝み合いなんですね。
 ですからそれを実験してみることです。それを当たり前のような思い方の中には、有り難いというものは生まれてまいりません。有り難いものがなからなければ、難は霊験とも喜びとも御礼を申し上げる心も生まれてまいりません。
 ただお初穂の上に不合格御礼と書けれることだけが合楽の信心じゃないです。その神意を分かったときに、なら不合格御礼とさしてもらえるような信心が生まれた時こそ、初めて云うならば布団に御礼を云うときに布団が又こちらを拝み返しておる。タオルに御礼を云うときにタオルが又、私を拝んでおる。
 そういう私は実験をしなきゃいけんと思うです。そのさえたるものがなら、天地を拝むね、又はさえたるものがいわば、普通では云う難儀というものを拝めれる心の状態ね。そして難ではないのだ。神愛だ。神願が成就しておるんだと云う頂き方が出来たとき、初めて合楽理念の神髄が体得できたということになるのじゃないでしょうかね。
 難儀と思うたり、思うようにならない、という事その事、勿論願いもしますよ、痛ければ痛い、痒ければ痒いで願いもしますけれども、ならその痛い事痒い事に対して御礼の云えれる心の状態を開かせていただく、ここを求めていくのです。 ですからそういうその難と感じる、云うならそこに御礼の心が生まれてこないところに、云うならばしっかり信心の帯をせよという事になるのじゃないでしょうか。
 しっかり信心の帯をさして頂くところから、今まで御礼の云えなかったことが云えれるようになり、御礼を言い出したら御礼を云わねばんらん事の多いことに驚くほど感じてくるようになる。その御礼を云うその感じることその事がおかげなんです。
 私は合楽世界の入り口だと思うですね。そこには私は云うならば貧争病のない世界があるとおもうですね、真善美に輝く世界がそこにあると思うです。合楽の信奉者の皆さんの一人一人にね、貧争病のない、それこそ真善美に輝く世界に住んで頂きたいと、これはもう日々の私の念願なんです。
 為には、今難儀と思うておるその難儀をいう事の実態を分かり、実相を分かってそして、そこに御礼の云えれる為の本気での修行をして下さい。その本気での修行と云うのは、火の行でも、水の行でもありません。それこそ自分のお世話になっておる全てのものに、御礼を云わせて頂けれる、それは人だけではありません。物だけではありません、事柄だけではありません。
 全ての一切の事に御礼を云えれる、いわゆる稽古なんです。面倒くさい、と思わずにまず布団に御礼をいう事、まずタオルに御礼をいう事から、私始めて、もうとにかく、不思議な事にその布団が今度はこちらを拝み返してくるとは、こういう事だろうかといういわば、拝んでみなければ分からない実感がこちらに頂けれるんです。
 そういう喜びが積もり積もって、云うならば、確信的な信心と云うか、喜びも生まれてきて、その喜びをもってするときに始めて、難は霊験と思うただけでその難に、御礼を云わずにおれない、という心が開けてくるんです。
 人が乞食だと言うても泥棒だというても、腹を立てない、それにいちいち不平を言うたり、不足を言うたり腹を立てておったんでは、おかげにならん。むしろその事におかげで信心が出来ますと云う、しっかり信心の帯をさせていただく事によって、次の状態が開けてくるのです。
 今日は私が皆さんにまあ合楽理念、合楽理念と云うが合楽理念が分かる、という事は思うようにならないこと、難儀と思うておるその事に御礼を云えれる手だてが合楽理念ではといてあるのだ。それを私共は実験実証させて頂いておるのだというところまで、分からなければ、ただ合楽理念の成る程、天の心地の心様々に解きあかされる御理解が有り難いというだけではない。
 そこの根本のところが分かって云うなら日々の御理解という事になるのですね。合楽理念、とにかく合楽理念はとにかく、私共が今まで難儀と思うとった。その難儀という事に御礼が云えれる手だて、その道を教えると言うてもいいわけですね。                          どうぞ